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    そこに、房一は、酒のために紅くなつてはいるが、そして、まだ額のあたりに筋張つた色が立つてはいるが、稍やゝ前こゞみになつた半白の頭を見た。それは河原町の人などには見られぬ線の粗あらさとどぎつさこそあつたが、想像したよりもはるかに老人だつた。

    「うむ、わしか」

    そこには、房一の紅黒い、怒張した顔があつた。いつのまにやつて来たのだらう、徳次はぎゆつと片手で押へつけられたまゝだつた。そして、房一の怒声を聞いた。

    その様子で、房一は今は隠れもない大石家の内部のごたごたを思ひ出したので、いさゝか間が悪いと云つた顔をしていた。――練吉の妻の茂子は、九月に入つてまもなくぶらりと大石家へもどつて来た。それは一日か二日姿を消していた飼猫がふたゝび舞ひもどつて来たやうな工合だつた。さういふ様子は茂子自身にあつたばかりでなく、大石家の老夫婦にもあつた。が、どういふはずみからか、今まで何年かその気配もなかつた茂子には、十一月に入つた頃から妊娠の兆候が現れた。万事投げやりだつた練吉にも意外だつた。そして、老夫婦と茂子との不和に気を腐らせていた彼は、これが案外緩和剤になるかもしれない、と考へたところが、それを聞いた老夫婦はちよつと眉を動かせたきりで、云ひ合はせたやうに黙つていた。多分、老寄としよりに特有な気の廻し方で、茂子に実子ができれば継子である正雄に対する愛がうすらぐとでも考へたものだらう。この気持は当然茂子に反映した。それに、彼女のつはりは重い方だつたので、さういふ状態で老夫婦と同居しているのは以前よりも辛かつた。で、今度は両方の公然の申し合せで、身体を休めに実家へしばらく行つていることになつた。房一が見かけたといふのは、茂子の帰るところである。

    その一揃ひの紙衣裳を見て、道平はまじめに感心した。

    彼は実際に身体を顫はせて見せた。彼の眼にはいつも肩章や、きらきらする指揮刀が眩まばゆく輝いて見え、むんむんする隊列の汗と靴革の匂ひ、町中を行進するときや、町外れの木蔭で見物人にとりまかれて兵卒に演習の想定を説明するときや、それらの晴れがましい空気の思ひ出が、今は日焼けがとれて生白くなつてはいるが、眉の強い、眼の切れ目な、短い鼻髭の生えている彼の稍冷い顔を生き生きとさせるのだつた。恐らく下士官頃の上長に対する習慣からか、彼は今でも無意識のうちに自分を引上げてくれる上長を求めているもののやうであつた。河原町でも、彼は鍵屋の神原文太郎氏のところや大石医院などへよく出入した。徳次が今泉を何となく気に入らないのも、多分さういふことも預つているのだらう。

    「お松は「い」の字と言う酒屋に嫁よめに行ったです。」

    男はまだ立つて、あの話を持ちかける構へといつた風を持していた。

    房一が法事に行くので夕食の支度も別にいらなかつた。手持無沙汰のまゝ、盛子はぼんやり居間の縁側に腰を下して庭先を眺めた。前には築地塀がほの黒く横切つていた。そして葉の落ちた無花果いちじくの木がその奇怪にこみ入つた枝をまだ明みの多少残つている中空に張つていた。静かだつた。そして、何もすることがなかつた。右手の方には、つけ放しのまゝになつている台所の電燈が戸口から斜めに、風呂場へ通じる三和土たたきの上に一種きは立つた明さで流れていた。そこだけが不思議と生き生きして見えた。そして、その明りは突きあたりの風呂場の煤すゝけた壁にうすぼんやりと反映し、その横手の納屋の軒先を浮かばせ、他はたゞ暗い外気の中にぼやけ遠のいていた。

    「どういたしまして。お茶位さし上げんと」

    房一はいくらかつんぼの道平の耳に口を寄せて、大声で云つた。

    練吉はちらりと眺めた。そして、彼のところへ対診を頼みに来た時にも気づいた、あの当惑したやうな小心な表情が今も房一の上に現はれるのを認めた。それはたしかに観物だつた。この男に、こんな気の小さいところがあらうとは!そして、こんなに丸出しにして見せるとは!

    ときは房一を見ると、殆どすがりつきさうになつた。そして、口をひきつらせ、上半身を揉むやうにして訴へかけた。

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